AIアートと自由・創造性の問題について: あるいは、AI以降の人間の在り方について

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まずは、画像生成AIについてAdvent Calenderを使って様々な人の意見や技術などを集める場を設けてくださったあるふさんに、感謝の意を表したい。

個人的には、氏の意見全てに同意する訳ではないが、少なくとも氏がご自身のAIを一から作ろうとしていること自体はリスペクトに値すると考えている。

だが、そのAIが出来上がった後に実現しようとしている、そのAI自身を含む高度な画像生成AIが消滅した世界や、AIピカソといらすとやのコラボで図られている著作者の独占的囲い込みを引き続き継続する世界は、たとえご本人の言うように一時的なもの・時間稼ぎ目的であったとしても、私は賛同できない。 そこで、今回は私自身の氏とは異なる考えを全面的に開陳したい。 (ちなみに初稿は12/3頃に書いたものであり、以降公開日である24日まで、その後の技術の進歩や他のAdvent記事の動向・内容などを踏まえて修正を加えている。 当初あったのは、前日の一夜漬けだと日が変わったそのタイミングでの公開ができないかもしれないという懸念を払拭するもので、それ以上の深い意図はなかったのだが、結果として私自身を被験者とした社会実験の側面を持つ。 急速な技術の進歩が人間にどのような影響を与えるかを示唆する、良いサンプルになると思う)

要約すると、この記事はAI時代における価値観のアップデートや、AI以降のアーティストの生き方を、技術者兼オープン・コミュニティ側のクリエイターとして提示するものである。 (中には鑑賞者やあるふさん向けの文章も含まれているが、その辺の主語は嗅ぎ分けて欲しい)

とあるAdventから消された記事は人の善意に期待するなと反AI派を突き放すが、私はそのようなことは可能な限りしたくはないので、この記事は善意をもって書いている。

あえて傑作として知られる初作や2ではなく、このバージョンを引いたのは、この世界のSarah Connorは、他ならぬターミネーターの味方を持っているからである。 AIは必ずしもSkyNetではない。

なお、CJDを使う条件など、本編に含めきれなかった内容は、オマケとして末尾に回して、可能な限り網羅的に、現時点での私の見解を盛り込むことを重視した。

今回の文章および画像について、私はパブリック・ドメイン(CC0)で提供する。

再創造・再配布も商用再利用への組み込みも、お望みなら好きにしてくれていい。 目次

AIアートにおけるステークホルダーは誰か?

あるふ氏含め、AIアートに関する議論を見ていて思うのは、多くの場合、既存クリエイター vs 技術者の観点で語られていて、その両者だけが代表的なステークホルダーであるかのように語られがちであることである。

まず、私はこの点に関して異論を唱えたい。

AIアートのステークホルダーには、第三極として「鑑賞者」が存在する。

そして、私は、この鑑賞者こそが(AI以前を含む)全てのアートを完成させる立場にいると考えており、そうであるがゆえに、無視できないステークホルダーとして考慮すべきだと思っている。

いくつかのレイヤーで紐解いてみよう。

まず、物理学の世界では、不確定な状態を確定させるのは観測者であることが知られている。

シュレディンガーの猫のような、量子論的不確定性が含まれる作品をアーティストが提示した場合、その状態を見ることによって確定させ、作品を完成させるのは、紛れもなく鑑賞者である。

Schrödinger's cat NovelAIで生成。設定はデフォ。 猫は、観測者が見るまでは生きていると同時に死んでいる。 ここで、放射性元素が崩壊したら死ぬ猫の代わりに、インクがキャンバスに噴射されるアートを入れたらどうだろう? このキャンバスの状態を確定させるのは観測者=鑑賞者である。

実際には、現時点での人間のアートはそこまで量子論的ではないので、この物理学的厳密性は無視できることが多い。

しかしながら、一度作者の手を離れた作品は、解釈の場を鑑賞者に委ねられることとなり、作品はその解釈を伴うことによってはじめて一つの完成を迎えるものである。

文学においてはロラン・バルトが「作者の死」として半世紀以上前に述べたことだが、これはテクストを持つ文学に限らず、非言語的な絵画・音楽・映像などの他の芸術にも当てはまるだろう。

鑑賞者なき作品は誰からもアートとして受け止められない。

作者自身は「完成」を主張することはできるが、その時には、作者から最初の鑑賞者に転じている。

抽象的でわかりにくいと考えるなら、もう少し世俗的に、ビジネスとして考えると良い。

確かに作者は作品を供給するが、それに需要を感じ、購入することを選択するのは、消費者=鑑賞者である。

そして、ことビジネスにおいては、購入されないアートは、「打ち切り」などとして未完のまま打ち捨てられることとなるだろう。

更に言えば、ビジネスの場では、消費者はその気になればキャンセル・ムーブメントを起こすことで、作者や作品を拒絶し、それによってその後の作品の在り方に影響を与えることすらできる。

…とはいえ、こういう世俗的な話は、あまり本質的ではない。 鑑賞者が作品を完成させる場に参加していることを示す、分かりやすいアナロジーではあるが、それだけなら更に分かりやすい例がある。

音楽におけるライブや、演劇、演芸などは、生身の人間がその場で作品を作り上げ、その出来が鑑賞者の反応によって左右されるものである。

特にライブは分かりやすい。鑑賞者であったはずの観客は、サイリウムを持ち、掛け声を上げることによって、今や境界を失って制作側に積極的に介入するようになる。 そしてそれ自体が、制作側を場の鑑賞に引き戻しつつ、相互作用を起こしながらよりハイレベルな制作へと繋がっていく。

a live concert, with full of crowds lighting up their psyllium, psychedelic light ups --ar 3:2 --v 4 Midjourneyで生成。

コロナ禍で、確かに無観客でもイベントができることは分かったかもしれないが、そのイベントは、観客がいた頃のライブとは最早別物になっているだろう。

絵画ではライブほど分かりやすい相互作用は見られないだろう(配信したり、ストリートでライブペインティングしたりするなら別だが)。

だが、それでも、これまで述べた複数のレイヤー(特に解釈と経済的側面)において、鑑賞者こそが作品を完成させる立場にあるのである。

その上で、各ステークホルダーの立場とマスを考えてみよう。

  • 技術者 多数派ではなく、ITに限ると約122万人だが、専業でそれなり以上の生活ができる水準のクリエイターよりは多い。 より良い作品を、技術の力でより普遍的に産み出し、届けたい。 その手段は、より効率的かつ効果的であるほど望ましい。
  • クリエイター より良い作品を作りたい。 月30万以上の収入を得ている、専業としてやっていけるクリエイターに絞ると約50万人(非商業目的を含む約822万人のうち、収入を得ている6割の中の1割程度)。 AI時代に入り、更に人口は伸びつつある少数派。 反AI派は、その過程における「努力」を重視して、場合によっては高みを放棄してでも(そして他者にまでその放棄を強要してでも!)AIを潰すことを厭わない。 一方で、AI支持派はAIをも使いこなして、更なる高みを目指すことに積極的である。 実際に、ももろみ氏の調査では、約6割がAIを使ってみたい、という結果すら出ている(もちろん、母数や偏りの問題を考えるとそのまま鵜呑みにはできないが、参考にはなるだろう)。
  • 鑑賞者 より良い作品を見たい。最大多数。 場合によっては、特定のアーティストのファンになることはあり得る。 が、アーティストが多過ぎる今となっては、ベートーベンやピカソ、シェイクスピアのような覇権的な知名度と支持の両方を誇るアーティストは、少なくとも率の上では却って減ってしまった。 そんな中、AIという新たな光を目の当たりにし、徐々にこれを楽しみ始めつつある。

民意ということで考えた時、AI反対派がいかに少数派で、多数の人がより良いものを享受する機会を奪おうとしているか、そしてそのことによって民意を敵に回しているかは、一目瞭然であろう。 (念のため言うと、あるふさんがその立場ではないのは理解している。ここで挙げているのは、より尖鋭化した反対派である)

ここで注意してほしいのは、誰もが「より良い作品」を目指している・望んでいることである。

そこで、私はAIアート支持の立場から、まずはここにフォーカスする。

AIアートより人間はうまく・速く描けるか?

私は、試みとして、以下のようなツイートをした。

そのような「挑発」とも取れるツイートをしたのは、AI反対派が自らを描写するときに、自分からトップアーティストではないことを明かすような発言をしていたからである。

元ツイートのアカウントが鍵になって、埋め込みが正しく表示されなくなっていたので、Google検索のスクショで代えさせていただく。

この「有名絵師やインフルエンサーがダンマリか容認している人しかいないので『雑魚ほど騒ぐw』と嘲笑の的になる」という点は、敢えて露悪的に言うなら、反対派は実際にAIに勝てない程度だから、自分たちの利益を守るというエゴの為にAIを潰そうとしているのではないか、と解釈する余地がある。

その仮説を検証することが狙いであった。

結果は、フェアに言うなら、バズってもいないので、見られていない、データ不足であるというところだろう。

だが、少なくとも反AI派で、これは、と思うものを提示する人はいなかったのも事実である。

ツイートのプロンプトにもリンクが含まれているのでそこから元画像はたどれる(と思う)が、面倒な人のためにここに元画像をおいておく。

実はこの子(=あたし)自体が、私自身をベースにして、人類の限界を超えた美貌などを持つ、理想的なパートナーを作り出すという試みの一環で、ver 2.1である。画像生成とは(やまかずさんが触れている仮想人間系とも)別のAIを複数組み合わせて産み出した。 だが、それは本題から外れるので、また機会があればということで今回は詳細は割愛するが、私は画像生成AIが普及する以前に、既に人類を超える手段としてAI利用を始めている。

反対派にやる気があるなら、是非やってみて欲しい。 不安なら、少なくとも私自身はその絵をAIに学習させないことや、その作品をi2iに使わないことを約束してもいい。 (他の人がAIに学習させるのを止める権利は私にはないが、もし大したフォロワー数もない私のところまで探して学習させる人なら、恐らくあなたの別の公開絵はとっくに学習されており、私に向けた絵が学習されるか否かは誤差の範囲だろう)

それすらできないのなら、いくら理屈をつけても、要は「自分たちはAIほどにも優れた作品は生み出せないけど、より優れた作品は許せないので潰します」と言っているだけであり、最悪の場合は「そんな人たちは相手にしなくていいよね。ピリオド」、で終わらせてもいいとすら思っている。

“Whoever is stupid and industrious must be got rid of, for he is too dangerous.” - Hans von Seeckt

中には以下のようなことを言う人もいるようだが、前近代的な剣豪が意地でも刀しか持たず、結果近代的な銃で装備した一般兵に倒されたとして、その時には時代遅れになった武士道精神でいくら「卑怯なり」と剣豪が叫ぼうが、勝ちは勝ちである。

『ルパン三世』の石川五ェ門のような例外的天才は切り抜けるかもしれないし、『七人の侍』の菊千代のように壮絶な相討ちにまで持ち込める人もいるにはいるかもしれないが、大局的には歴史はそのように動いてきた。 流れに乗れなければ、長篠の戦いで敗れた武田勝頼と同じ末路をたどるのが、関の山である。

なお、この人はフォロワーだのいいねだの言っているが、顧客にある意味では媚びなければ生き残れないビジネスならともかく、そこを超えた場でさえも他者の評価を通じてしか自分の価値を確認できない人には、憐憫と同情すら覚える。 イーロン主導の仕様変更でビュー数が公開されるようになったが、それすらも興味はない。

自分の価値くらい、自分自身で決めよう。 数が多いことは良くも悪くも、すでに大衆が理解できてしまう水準であることを意味するに過ぎない。 それはビジネスでは素晴らしいことだが、アートでは、必ずしもベストなことではない。 だが、今回は別の話なので、そこには踏み込まない。 大体言いたいことは、23日のAdvent記事の最終節「コンテスト優勝だけが正義じゃない」において、LWさんが代弁してくれている。

話を戻すと、実際のところ、仮に現時点でAI絵に勝てる絵が作れる人でも、midjourneyやDiffusionほどの短時間で終わらせることはできないだろうから、それならAIの更なる発展を待てばいいだけ、という結論に落ち着かせても、その気なら良かろう。

だが、それではあまりにも救いがないし、かのAdventで削除された人と同じである。 それは突き放しであり、切り捨てである。 彼らも(AIと違って!)人権がある人間である以上、そう切り捨てた結果、彼らが死に至る未来などは私とて望みではないので、次はもう少し共存の観点で、「救いの手」について考えてみる。

まずは価値観の再編から

"Fear is the path to the dark side.  Fear leads to anger.  Anger leads to hate.  Hate leads to suffering." - Yoda

人間は代替不能という幻想の解体